夜中の二時、子供が高熱を出して泣き叫んでいる。けれど隣で眠っている妻は、当直明けでぐったりして、揺すっても起きない。一人で子供を抱え、体温計を探しながら、ふと思う。この子にとって、母親は本当にそばにいる存在なんだろうか、と。
その翌日、職場の同僚には、奥さんお医者さんなんて安定していいね、と羨ましがられる。女医と結婚するとはどういうことか。華やかなイメージと、深夜に一人で対応する現実。先に言ってしまうと、女医との結婚でいちばん大変なのは、世間が想像しているところとは、少しずれた場所にある。
羨ましいと言われるほど、本音が言いにくくなる
女医の夫は、まわりからほぼ確実に羨ましがられる。安定している、経済的に楽だろう、頭のいい奥さんで素敵だ。言われるたびに、悪い気はしない。けれど、この羨望が、じわじわと効いてくる。
これだけ羨ましがられている生活を、しんどいとは言いにくい。当直で家庭がまわらないとか、すれ違って会話が減ったとか、口にした瞬間に、贅沢な悩みだと笑われそうで飲み込んでしまう。実際、女医と結婚した知人を見ていた人が、本人から、羨ましがられるのが逆にプレッシャーなんだ、とこぼされた、という話がある。外から見た華やかさと、内側の負担の落差が大きいほど、二人は本音を外に出せなくなる。行き場のない不満は、夫婦の内側にたまっていく。
苦しいのは、妻の忙しさではなく、大黒柱でいられない自分
収入差は、財布より先にプライドに効く
妻の年収が自分の三倍以上ある。結婚当初は、経済的に楽になると素直に喜んでいたのに、家を買う段になって、自分の稼ぎではこの家は選べなかった、という事実が重くのしかかる。外食や旅行で、もっといいところにしよう、と妻が言うたびに、財布の紐を握られている気がしてくる。私が働いている分くらいの贅沢はいいでしょう、というその言い分が正しいだけに、何も言い返せない。
お金そのものより、プライドのほうが先に削られる。収入差のある結婚は、想像よりずっとデリケートだ。割り切れずに、妻に八つ当たりしてしまう時期を通る人は、けっこういる。
男のくせに、という外野の声
子供が生まれてから在宅の仕事に切り替え、送り迎えや夕飯の支度を引き受ける。周囲からは、男のくせに、と冗談まじりに言われることもある。この一言が、地味に刺さる。自分では妻の仕事を誇りに思って選んだ役割なのに、世間の標準的な夫像から外れていることを、わざわざ突きつけられる。
支える側にまわると決めた人ほど、この外野の声と、どう折り合うかが問われる。妻が疲れた顔で、今日も助かった、ありがとう、と言ってくれる。その一言を素直に受け取れるかどうかで、同じ生活がまるで違う色になる。
妻のほうも、見えないところで罪悪感を抱えている
しんどさを抱えているのは、夫だけではない。
先生と呼ばれる職場、いないママと言われる家
夜間や休日の呼び出しで、子供の運動会や発表会に行けない。ママはまた来てくれないの、と聞かれるたびに胸が痛む。職場では先生と呼ばれ、尊敬されているのに、家ではいつもいないママとして扱われている気がして、自分が何者なのか分からなくなる。
夫が良かれと思って、俺が全部やるからいいよ、と言ったその瞬間に、自分は家庭に要らない存在なのかもしれない、と泣いてしまう女性もいる。夫の優しさが、逆に居場所のなさを突きつけてしまう。キャリアと家庭の両立は、時間の問題である以上に、自分の価値をどこに置くかという問いになる。比較的残業の少ないクリニックに移り、収入を下げてでも家族との時間を取った、という選択に至る人が多いのは、この揺らぎの末のことだ。
二人が別々に握っている、同じ採点表
夫の引け目と、妻の罪悪感。一見ばらばらに見えるこの二つは、実は同じ一枚の紙から出ている。
世の中には、誰も書いていないのに全員がなんとなく持っている、結婚の正解像がある。夫が主に稼ぎ、妻が家庭に多くいる、という昔ながらの形だ。女医との結婚は、その形を最初から大きく外れている。なのに二人とも、無意識にその正解像を採点表として握りしめ、自分はそこから外れていると、別々に自分を減点している。夫は稼ぎと父親としての在宅時間で、妻は母親としての不在で。
苦しみの正体の多くは、合っていない採点表で自分を測り続けていることにある。だから、乗り越えていく夫婦がやっているのは、たいていこれだ。その採点表を、いったん捨てる。自分たちの生活に合う形を、自分たちで決め直す。週に一度は必ず二人で食事をする時間をつくる。子供の行事は可能な範囲で妻も入れるよう予定を組む。派手な解決策ではない。ただ、借り物の正解で自分を裁くのをやめた、というだけのことだ。それだけで、ずいぶん息がしやすくなる。
妻の仕事の重さは、たぶん理解できない。それでいい
救急医の妻が、重い患者の話をしながら泣き出したのに、どう慰めればいいか分からず、ただ抱きしめることしかできなかった。専門用語の多い症例の話をされても、すごいね、としか返せない。一般の人には分からないよね、と少し寂しそうに笑われると、距離を感じてしまう。
ここで多くの人が、相手の仕事を理解できない自分を責める。でも、理解しようとすること自体が、たぶんゴールの置き方を間違えている。命に直接かかわる仕事の重さを、外側にいる人間が本当に分かることはない。分からないままでいい。完璧に共感できなくても、大変だったね、と声をかけ、黙って隣にいる。理解ではなく、そこにいることのほうが、配偶者に求められている役割だ。聞くことに徹すると決めた人ほど、かえって相手の支えになっている。
子供のタイミングという、誰のせいでもない難問
女医との結婚には、避けて通りにくい現実がもう一つある。
産婦人科医の妻が、結婚した時点で三十代半ばで、産むなら早いほうがいいと焦っている。けれど当直や手術のスケジュールが過密で、タイミングがまるで合わない。不妊治療を始めても、仕事の都合で通院をキャンセルせざるを得ず、夫婦喧嘩になる。これは、どちらかがサボっているわけでも、家庭を軽んじているわけでもない。激務と、年齢と、限られた時間が重なった末の、構造的な難しさだ。
結局、一年休職して治療に専念した結果、子供を授かった、という話もある。キャリアを一時的に止める覚悟が要った、と当人も振り返る。誰のせいでもないと分かっているからこそ、苦しい。ここを相手のせいにし始めると、夫婦は静かに壊れていく。
女医と結婚する前に、自分に問うべきこと
もしあなたが、これから女医と結婚するかどうかの前に立っているなら、考えるべきは妻が時間を作れるかどうか、ではない。
本当に問うべきは、自分が大黒柱という肩書きを手放しても、この関係の中で自分の価値を見つけられるか、だ。収入で上回らなくても、家にいる時間で勝らなくても、揺らがずにいられるか。羨ましがられても舞い上がらず、しんどいときに、しんどいと二人で言い合えるか。ここに正直にうなずける人にとって、女医との結婚は、世間が思うほど不幸な選択ではない。むしろ、対等に支え合う関係を、早い段階で本気で考えざるを得ないぶん、かえって深くなることもある。
楽な道ではない。それでも選ぶ人がいる
女医との結婚は、ふつうの結婚より、話し合いの回数も、役割の組み替えも、ずっと多くを要求してくる。羨ましがられる外見の裏で、二人は人より多くの調整を背負っている。
ただ、それは相手の仕事がそれだけ重く、それだけ意味があるということでもある。その重さごと引き受けると決められるかどうか。乗り越えてきた夫婦は、何度も悩んで、何度も話し合って、それでも一緒にいることを選び直してきた人たちだ。簡単ではないし、向き不向きもはっきり出る。それでも選ぶ価値があると思える相手なら、その面倒くささは、たぶん払う意味のある代償になる。
