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夫婦の休みが合わない。同居人みたいになるのは、時間のせいじゃない

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あなたが家を出る朝、相手はまだ寝ている。相手が帰ってくる夜、あなたはもう眠っている。テーブルには、すれ違いざまの短いメモ。たまに在宅の時間が重なっても、夜勤明けの相手は疲れ切っていて、会話は続かない。気づけば、夫婦というより、同じ家に住んでいるだけの二人みたいになっている。

夫婦の休みが合わない、と検索する人の多くは、この感覚に不安を抱いている。このまま気持ちまで離れていくんじゃないか、と。でも、先に言っておきたい。同居人みたいになる本当の原因は、一緒にいる時間が少ないこと、そのものではない。もっと別のところにある。

目次

同居人みたいの正体は、時間の少なさではない

休みが合わないと、つい、時間が足りないせいだと考える。一緒にいる時間さえ増えれば解決する、と。だが、ことの本質は、量の問題ではない。

毎日顔を合わせている夫婦は、特に何もしなくても、勝手につながりが保たれている。同じ食卓につけば、今日あったことが自然と耳に入る。同じ部屋にいれば、機嫌や疲れが、言わなくても伝わる。すれ違いざまに、軽口を交わす。こういう小さな接触が、本人たちの意識の外で、絶え間なく積み重なっている。つながりが、自動で補充されているのだ。

休みが合わない夫婦には、この自動補充がない。放っておくと、何も起きない。共有される食卓も、漏れ聞こえる一日も、偶然の近さも、生まれない。関係が縮んでいくというより、勝手に足されるぶんがゼロになる。同居人感の正体は、これだ。時間が少ないのではなく、何もしなければ何も起きない生活になっている、ということなのだ。

ほかの夫婦がただで手にしているものを、手で作る

ここが分かると、やるべきことが見えてくる。すれ違いの夫婦は、ほかの夫婦が無意識に手にしているつながりを、意識して、自分の手で作るしかない。

ほかの夫婦が、特に努力もせず自然に得ているもの。それを、あなたたちは、わざわざ段取りして、手で積み上げる必要がある。不公平に聞こえるかもしれない。実際、少し面倒だ。でも、続いている夫婦を見ると、例外なくこれをやっている。彼らは、つながりが自然に湧くのを待つのをやめて、自分たちで作りにいくことを選んでいる。長く連れ添った夫婦が、合わないことを前提に、連絡だけは欠かさない、感謝の言葉を伝える、という小さな習慣を続けてきた、と振り返るのは、まさにこのことだ。

つながりは、長さより回数で保たれる

では、具体的に何を積むのか。ここで多くの人が誤解している。まとまった時間がないと無理だ、と思い込んでいる。でも、絆を保つのは、一回の長さではなく、接触の回数のほうだ。

短い連絡を、こまめに

二ヶ月に一度の豪華なデートより、毎週の短い電話のほうが、関係を支える。週に一度、たった数分でも、今日あったことを共有する。すれ違いざまに、ありがとうと一言送る。こうした小さな接触をこまめに重ねるほうが、たまの大イベントより、ずっと効く。時間が細切れにしか取れないなら、その細切れを、頻繁に、あたたかくすればいい。

合う日は、意図的に空ける

そして、稀に休みが重なる日。これを、自然に任せてはいけない。放っておくと、その貴重な日も、雑用や寝だめで消えていく。だから、前もってカレンダーに書き込んで、予定として確保する。ある夫婦は、それを特別デーと名づけて守っている。合う日は家事を全部休む、と決めた夫婦もいる。月に一度、半休や有給を取って、無理やり重なる時間を作る人もいる。すれ違いの生活では、行き当たりばったりはもう効かない。予定を立てること自体が、新しいロマンスになる。

そもそも、その一緒の時間は、本当に羨ましいか

休みが合う夫婦が、うらやましく見える。でも、少し立ち止まりたい。彼らの一緒の時間は、本当に中身が濃いのだろうか。

毎日一緒にいても、二人とも疲れて、ソファでそれぞれスマホをいじっているだけ、という夫婦は多い。在宅時間が重なっても、片方が疲れ切って会話がない、という状況は、休みが合わない夫婦自身がよく知っている。つまり、一緒にいることと、つながっていることは、別物だ。同じ部屋でぼんやり三時間過ごすより、すれ違いの夫婦が、集中して三十分話すほうが、よほど深いこともある。隣にいるのに上の空、という時間に、あなたが思うほどの値打ちはない。羨ましさは、少し割り引いていい。

子どもが片方の親に偏るのは、構造の問題だ

子どもがいる場合、休みが合わないことが、思わぬ形で出る。それぞれが、自分の休みの日にしか子どもと過ごせないと、子どもは、親ごとに別々に懐いていく。

パパの休みの日はパパと、ママの休みの日はママと。これを続けるうちに、子どもが、休みでない側の親を避けるようになる。パパがいてもママじゃないと嫌だ、と駄々をこねる。これは、子どもの気まぐれではなく、親と過ごす時間が分断されていることから来る、構造的なものだ。だから、対処も構造でやる。意識して、家族がそろう時間を作る。月に一度でも、半休を合わせて、三人や四人で公園に行く。両親が一緒にいる場面を子どもが経験すると、偏りは自然にならされていく。

一人の休みを、楽しんでいい

ここは、罪悪感を持たなくていい、と言っておきたい。相手のいない休みの日を、楽しんで過ごすことは、悪いことではない。

相手のいない休みに、友人と出かけたり、一人で趣味に没頭したりして、自分の時間を満喫する。相手も同じように、自分の世界を楽しんでいる。これは、夫婦の不仲ではない。むしろ、お互いの自立を保ちながら、会ったときに話したいことがある、という関係は、ひとつの健やかな形だ。離れている時間が、次に会ったときの会話を弾ませてくれる。寂しさだけで見なくていい。

ただし、ひとつ条件がある。さっき書いた、こまめな連絡と、意図的な時間を、ちゃんと続けていることだ。それがないまま自由だけを謳歌すると、自立は、ただのすれ違いに変わる。一人の時間を楽しむことと、つながりを手で積むことは、両方そろって初めて機能する。

離れているようで、それが二人の形

きれいにまとめるつもりはない。休みが合わない暮らしでは、ほかの夫婦が当たり前に持っている、一緒にいるだけの何気ない時間は、たぶん手に入らない。記念日をうっかり二人とも忘れる日も来るし、寂しい時期も、正直ある。

それでも、問われているのは、すれ違いをなくせるかどうかではない。多くの場合、シフトも仕事も、簡単には変えられない。問われているのは、その隙間に、つながりを意識して置きにいけるかどうかだ。離れて暮らしているような感覚だけど、それが自分たちの形だ。そう受け入れて、こまめに連絡を取り、合う日を守ってきた夫婦は、すれ違いながらも、ちゃんと続いている。一緒にいる時間の長さでは測れない夫婦の形が、確かにある。

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